衰退日記 ~衰退する日本を生き抜け~

日本の衰退の原因と対処法を考えるブログです。ネトウヨは閲覧禁止。

目先の金しか見ない日本人

私は大学で文学部に所属していた。

そのために、「それが将来何の役に立つの?」ということはよく言われた。

文学部など就職には何の役にも立たないと思われていて(それは実際にそうなのだが)、学ぶ価値など無いと思い込んでいる人々が日本社会には結構存在する。

しかし、

就職に役立たない=学ぶ価値がない

というのは大いなる間違いである。

 

そもそも大学は就職の役に立つことを学びに行く場ではない。

大学というのは「知」を創造する場だ。

そのことをわかっていない日本人が多すぎる。

全ての人間が大学に行っていない以上、わかっていないのは仕方がないことかもしれないが、それなら余計なことを言わなければいいのにと思う。

 

そもそも就職の役に立つことだけしか学ばないならば、人類はここまで進化しなかっただろう。

人類は、「それが何の役に立つの?」ということを考えて考えて考え抜いたあげくに、ここまでの進化をしたのである。

たとえば、ニュートン万有引力アインシュタイン相対性理論だって、就職の役には立たないだろう。直接的には将来の役には立たないであろう。

しかし、当時の学界がそんな「就職の役に立たない」事柄に価値を認めていたからこそ、ニュートンアインシュタインは偉大なる科学者として歴史に記録され、人類の「知」は飛躍的に進歩したのである。

 

日本社会はそんな「就職の役に立たない」=「目先の金に結びつかない」学問の価値をもっと認めるべきであるし、もしそうしないのなら、今後日本から新しい「知」が創造されることはないだろう。

日本には本当の保守がいない

現在の日本は保守政治家が力を握り、ネトウヨ理論が大手を振っている。

しかし、現代日本の「保守」は本来の保守ではない。

本来の保守は、先日亡くなった半藤一利のような人のことだと思う。

私は、半藤一利の死をもって、日本に本当の保守はいなくなったと思う。

 

のこりの自称「保守」は、全て偽物である。

日本の凄さを語り、中韓を攻撃し、改憲を唱えている今の日本の保守は、保守ではなくただの「馬鹿」である。

 

半藤一利司馬遼太郎山本七平のようなかつての保守は、第二次世界大戦の時の日本の愚かしさを知っていた。

だから行き過ぎた自国中心主義の危険さを知り、自己抑制がきいていた。

 

今の保守は無責任に第二次世界大戦時の日本を賞賛し、他国を見下げて、夜郎自大に陥っている。

かつての本物の保守達が批判した大戦時の日本の愚かさを、今の偽物の保守達は繰り返そうとしている。

 

これが現代日本の不幸である。

「親日」、「反日」は馬鹿の言葉

一時期からよく聞くようになった言葉、「親日」と「反日」。

私はこの言葉を使う人間を基本的に信用しない。

これは人間を思考停止させる馬鹿の言葉だと思うからだ。

 

しかし、マスメディアなどでも世界を親日国と反日国に分けて考える思考法がかなり定着してきているようだ。

だから、日本人の世界観は貧相だし、日本外交がうまくいかないわけだと思う。

 

まず、100%の親日国や100%の反日国など存在しない。

一人の人間の中にだって日本のここが好き、日本のここが嫌いというものがあるはずだ。

ましてや数千万、数億もの人口のいる国を単純に「親日」「反日」で分けることなど不可能だ。

そして、「親日」「反日」という時の「日」が何を指しているのかもはっきりさせないまま議論されていることが問題だ。

「日」は日本政府なのか、日本人なのか、日本文化なのか、日本製品なのか、それによって全く意味が変わる。

例えば、日本のことなんてロクに知らないし興味もない外国人が日本製の車が好きならそれだけで「親日」になるのか。

日本のアニメは大好きだけど、日本政府のことが嫌いならそれだけで「反日」になるのか。

親日」「反日」の「日」とは何だ。

それを定義しないままこの言葉だけが一人歩きし、それによって外交政策が動いたりしている。

だから今の日本はダメなのだ。

 

結局のところ、「親日」とか「反日」なんてものは、日本人が頭の中で思い描いているイメージにすぎない。

そういう議論を好む輩に限って一回も海外に行ったこともなければ、外国人の知り合いもいない。

逆に言えば、知らないからこそ、好き勝手に自分の思い込みを相手に投影させることができるのだろう。

 

こんなネトウヨ理論に振り回されている日本の将来は暗いだろう。

架空ブログ撲滅とかいう謎の正義感

「借金ブログ」というカテゴリーのブログをたまに見ている。

私は今は借金が無いのだが、ブログを通して他人の人生を覗き見るのは面白い。

 

そんな中、人気借金ブログなどに対して「架空だろ!」と難癖をつける架空ブログ撲滅サイトなるものがあることを知り、暇な人間もいるものだと思った。

 

そもそもブログの内容が事実なのかを確かめる術はないし、確かめる必要もないと思う。

そして、ブログ主自身が読者に対して事実を書かなければならない責任も無いと思う。

(著しく公益を損ねる場合は除く。デマを撒き散らして社会を混乱させる場合など)

多くの読者はブログ主に対してお金を払って記事を読んでいるわけではない。

他人が書いた文章を「タダ見」しているだけである。

そんな「タダ見」客がブログの内容に対して「架空だ!」とか「騙された!」とか叫んでいるのは滑稽である。

架空ブログ撲滅などしている方々は、国民を騙して税金を私物化している与党政治家の方々に対しても同じように正義感を働かせてくださっているのでしょうか?

 

お金も払わずにタダ見をしているブログの管理者に対しては怒りを露わにするくせに、自分たちのお金を奪っていく政治家をスルーするのはどのようなダブルスタンダードなのでしょうか?

弱者の嘘には厳しいくせに強者の嘘には寛容なのが日本人。

 

結局架空ブログ撲滅サイトなんてものは、そんな見当違いの正義感にすぎないと思う。

物乞いや物売りが現れた

先日、町をぶらぶら歩いていたら、留学生の物売りがお菓子を売りつけてきた。

コロナ禍で大学をやめざるを得なくなり、生活が苦しいのでお菓子を買って支援してください、ということだった。

私は何も言わずにお菓子を買った。

買った後になって後悔した。

何故、お菓子を受け取ってしまったのか、と。

何故、もっとお金を出してあげなかったのか、と。

 

その留学生が本当に生活に困窮しているのかを確かめる術はない。

騙されている可能性は十分にある。

 

しかし、本当に騙して稼ぐ気ならばお菓子の物売りなど効率が悪すぎる。

普通にバイトした方がはるかに稼げるだろう。

しかし、それにもかかわらず物売りをするのは何故か?

日本語がロクに話せない留学生では雇ってもらえないから。

もしくはビザの関係で就労が認められていないから。

大方、そんなところだろう。

そしてコロナ禍に伴う外国人の出入禁止措置のために帰国もできない。

ならば、少しでも生活費の足しにするために物売りを選んでもおかしくはない。

 

私が同じ立場だったらよっぽど困窮しない限り物売りなどしたいと思わない。

声をかけても買ってくれる人などほとんどいないであろうし。

冷たい視線や心無い罵倒を受けることだってあるだろう。

寒風吹きすさぶ中物売りを続けていたあの留学生は今頃何をしているのだろう。

私が物売りから物を買ったのは、東南アジアで物売りの子どもからポストカードを買って以来である。

 

コロナ禍で職と住居を失った人が物乞いをしているというニュースを見た。

「乞食がいない国」と言われていた日本に再び乞食が登場した。

東南アジアのように街頭での物売りがまた現れた。

 

日本はまたかつての貧しい時代を取り戻そうとしている。

自民党が言っていた「日本を取り戻す」とはこういうことだったのか、と思う。

生ける化石にならないために

先日、職場の年配の職員との話で驚いたことがある。

その年配の職員(Yさんとしよう)の方はパソコンで「コピー&ペースト」ができないというのだ。

私の職場は普通にパソコンを使う仕事である。

Yさんは資料などをパソコンで作っている人である。

今までYさんはコピー&ペーストを使わずに全て手打ちをしていたというのか。

その無駄な労力に驚くとともに、どおりで打ち間違いをしばしば起こしていたのだなとも思った。(コピー&ペーストを使えば理論上は打ち間違いなど起こらないのに)

 

私の職場にはこういう生ける化石のような職員がしばしばいる。

働く中で覚えればいいと思うのだが、そういう職員にかぎってプライドも高いので新たに覚える気にもなれないのだろう。

 

自分自身の成長を阻害するようなプライドは不要である。

そんなものは百害あって一利なしだ。

 

生ける化石のような職員の方に限って新技術の導入には否定的だ。

「昔からこうしてきたから・・・」と言って改革に反対する。

成長を止めた人生の先輩たちの姿を見ながら、こうなってはいけないなと思う。

 

その姿はきっと、今の衰退しつつある日本社会の姿そのものだから。

何で「将来の夢」って職業ばかりなのだろう?

「将来の夢って何?」と聞かれてすぐに答えられる子供ではなかった。

何故なら、「野球選手」とか「料理人」とか「パン屋さん」みたいな職業につくことをそもそも望んでいなかったから。

どんな仕事でもいい部分もあれば悪い部分もある。

その仕事のいい部分だけを見て、その仕事に就きたいと感じることがあまりなかった。

そもそも仕事なんかしたいと思ったことがなかった。

 

今でも思う。

どうして「将来の夢」という質問の答えはいつも職業なのか。

「自由に生きたい」とは昔から考えていた。

しかし、それではこの質問の答えとしては不適切らしい。

なりたい仕事を持たなければ夢を持ったことにならない日本社会の在り方に違和感があった。

 

今私は仕事を持っている。

一度も自分がなりたいと思ったことのない仕事だ。

でもそれでいいと思っている。

仕事はあくまでも収入を得るための手段でしかない。

本当にやりたいことはその収入を得ることで実現するものだ。

 

職業を通じて夢を実現できる人は幸せだ。

しかし、それができるのは一握りの限られた人たちだけだと思う。

私のように子供のころからなりたいと思っていた仕事の無い人間は、

仕事を通じて得た収入で夢を叶えるために動くべきだ。

 

「自由に生きたい」

その夢を実現するためにはお金が必要だ。

だから今は一度もなりたいと思ったことのない仕事を黙々と続ける。