日本は台湾の楯になるのか
以前から思っていたことがある。
ネトウヨは何故台湾だけは批判しないのか。
ネトウヨは自分の嫌いな相手を口汚く批判し、特に外国をいつも下に見ている。
しかし、不自然なほどに台湾のことは批判しない。
かつての植民地であり、今でも正式に国家として認められていない台湾など、ネトウヨから見れば見下げたくなる相手であるにもかかわらず、台湾のことは馬鹿にしない。
たとえ台湾漁船が尖閣周辺で拿捕されたとしても、台湾で従軍慰安婦に関する訴えがなされようと、ネトウヨは絶対に台湾を批判しない。
「あれは外省人(1949年以後に台湾に渡って来た中国人)であって、本省人や原住民は親日だから」と言って、台湾を擁護する。
ネトウヨの天敵蓮舫氏は台湾人だが、だからといって台湾を批判しない。
(これは台湾を批判しない方が正しいのだが、犯罪者を何の根拠もなく在日韓国・朝鮮人であると断定して韓国批判を始めるネトウヨとしては、ダブスタと言われても仕方ない)
ネトウヨが台湾を批判しない理由は、「台湾は親日だから」ということで一応納得はできそうだが、実際には台湾でも日本を批判する人はいるし、多くの台湾人は日本語もできなければ日本のことをそんなには知らない。
そして、尖閣諸島については台湾も領有権を主張しており、日本と領土問題をめぐって争っていると考えることもできるのだが・・・
ここで私は一つの仮説を立てた。
ネトウヨ=台湾なのではないか?
もちろん大半のネトウヨは頭の弱い日本人なのだろうが、ネトウヨの中には台湾からお金をもらって世論形成をおこなっている人間が一定数いるのではないか?
私がそう考えるのは、台湾の独立派(台独派)の主張が見事にネトウヨの主張と一致するからだ。
(ちなみに私のかつての知人の台湾人もネトウヨとそっくりの主張をしていた)
特に興味深いのは、現在の蔡英文政権は進歩派であり、ネトウヨの大嫌いな「左翼的」政権であるにもかかわらず、ネトウヨは蔡英文を応援し、「右翼的」な国民党の方を叩く。
もし蔡英文が日本の政治家ならば、ネトウヨの集中砲火を受けていたと思われるにもかかわらずである。
この不自然なまでのネトウヨの台湾の民進党(≒台独派)推しは、彼らが結託しているからなのではないかと私は思っている。
これを確信したのは、私の昔の知人でネトウヨ化したとある論客(保守雑誌に度々寄稿している)が現在台湾で研究員をしているとの情報を得たことである。
台湾がこのようなネトウヨ系論客に活動資金を渡し、日本の世論をネトウヨ寄りになるように工作しているのは明らかである。
では、台湾が日本の世論をネトウヨ寄りにさせようとしているのは何故なのか?
それは日本を中国と対立させ、日本を中国の侵略から台湾を守る楯にするためであろう。
小国台湾の生き残りのための必死の策であると見ることができる。
思い起こしてみれば李登輝から始まる台湾独立派たちは、司馬遼太郎や小林よしのりなど保守系言論人を利用して日本の中での知名度を上げてきた。
日本人の台湾に対する関心の高まりと日本の右傾化はほぼ同時進行で進んできた。
日本では「台湾は親日!」という幻想が蔓延しているため、台湾の外交・軍事戦略を客観的に見ようとしない人が多い。
しかし、何故「台湾は親日」なのか、その「親日」にはどのような意図があるのか、を考えてみると、そこには彼らなりの合理性、戦略性が透けて見えてくる。
日本が台湾の楯になるのならなれば良いと私は思う。
それがかつて台湾を植民地にした日本の責任の取り方でもあると思うからだ。
しかし、台湾の日本を利用した生き残り戦略を考えもしないで、ただ中国との対立、戦争へと突き進んでいくのなら、日本には滅亡の未来しか待っていないだろう。
大統領を逮捕できる韓国、首相を逮捕できない日本
「韓国では大統領が辞めるといつも悲惨な末路となる」と日本人はよく言う。
その発言の裏には「だから韓国は怖い」とか「だから韓国の政治は野蛮だ」という本音が隠されている。
いずれにせよ、日本を韓国より優位に置きたい人々がこの発言をよくする。
たしかに韓国は大統領が辞任した後に報復を受ける例が多い。
日本とは大違いだ。
そう、今の日本は自民党の首相ならば絶対に逮捕されないからだ。
安倍晋三はもりかけ、桜、河井夫妻など昔の自民党なら逮捕されてもおかしくない案件が山ほどありながら結局逮捕されていない。
日本では検察と自民党が馴れ合っており、権力の分立が機能していないからだ。
民主主義の基本は権力の分立である。
野党と与党、行政権と司法権の分離など、中央政府と地方自治体の権力の分立など。
民主主義は基本的に人間の善意を信用しないシステムである。
だから個人に権力を集中させないようにし、国家の各権力が相互に牽制・対立することで、国民がそのキャスティングボートを握れるようにしているシステムである。
「権力の分立の中から自由が生まれる」というのは明治初期に福沢諭吉がすでに見抜いていたことであるが、今の多くの日本人はこれを理解していない。
国民に選ばれた政治家は無制限の権力を握ってもよいと考えている日本国民が多すぎる。
それはただの扇動政治家による独裁政治であり、紀元前4世紀のアテネの衆愚政治と変わらない。
今の日本の政治レベルは古代アテネの民主制とあまり変わらない。
アテネが衆愚政治によって没落したように、日本も没落を余儀なくされるだろう。
日本のネトウヨどもが、「ムンジェインの支持率が下がっている」と嬉々として騒いでいたりするが、それは韓国においてムンジェインに代わる別の政治家がいるということであり、どれだけ支持率が下がっても代わりが見つからない日本の絶望的な状況より韓国の方がまだマシであることを示しているにすぎない。
韓国人は自分たちの生活のために大統領を「使おう」とする。だから、必要なくなったら容赦なく引きずりおろす。
それに対して日本人は「他に選択肢が無いから」とかいう舐めた理由で自民党政治家を選び続ける。そのために自民党政治家による不正・汚職が常態化する。
日韓の民主主義システムは、果たしてどちらがうまく機能しているのだろうか?
ネトウヨに論理的分析は適さない
ネトウヨという言葉が市民権を得たおかげで、彼らに対する分析も進んでいる。
しかし、いつも思うのは、ネトウヨという連中の思考回路を論理的に考えても無駄だということ。
彼らの言うことは常に矛盾しているが、それを何とかして論理的に理解しようとしても無駄である。
何故なら彼らの思考方式に論理など無いからだ。
ただあるとすれば、一つだけ。
「自分に甘く、他人に厳しい」
これがネトウヨの思考方式の全てである。
どんなに知識や理論で武装したところで、ネトウヨの思考・発言・行動は全てこれに当てはまる。
自分に甘いので、自分が不正をするのはOKだが、他人が不正をすると永遠に批判し続ける。
ネトウヨの叫ぶ愛国など、単に国家レベルにまで肥大した自己愛でしかない。
彼らの愛する日本は現実の日本ではなく、彼らの脳内妄想の日本であり、
彼らが敵視する韓国は現実の韓国ではなく、彼らの脳内妄想の韓国である。
「日本を貶めるな!」というのは「俺の妄想を否定するな!」ということであり、
彼らの思考方式は架空のキャラについての妄想をめぐって論争するオタクと変わりない。
オタクとネトウヨの親和性が高いのは、妄想の世界で生きているという点で、両者は共通しているからである。
森喜朗という失言モンスターを日本人は退治できなかった
森喜朗は失言王である。
いや、失言王という言葉では生ぬるい。
20年以上前から失言であれだけ叩かれながら、反省せず性懲りもなく何度も失言を繰り返す。
あれはモンスターである。失言モンスター。
あの男が失言モンスターであることを重々承知していながら、オリンピックの組織委員会会長に就けている現政府の危機管理能力の欠如に呆れるほか無いが、これだけ国際的非難を浴びてもまだ続投させるつもりらしい。
ここまでして森会長を守り続ける理由は何か。
彼を組織委員会のトップに着けるメリットはどこにあるというのか。
とはいえ個人的には東京オリンピックはなくなってほしいので、森喜朗に続投させて、世界各国から続々とボイコットを食らう事態になってほしいと思っている。
なので私は森喜朗の続投を望む。
世界各国から明確なNOを突き付けられない限り、この国は変われない。
森喜朗という失言モンスターすら自国民だけでは退治できなかったのだから。
天皇制廃止では日本は良くならない
前日の日記で天皇制に対して批判めいたことを書いた。
いわく、「天皇制はトップが責任をとらないという日本社会の特質の典型だ」と。
しかしこれは事実を述べているだけであって、別に天皇制を批判しているわけではない。
いや、むしろ私は天皇制維持論者である。
天皇制を廃止したところで日本社会は良くならないと考えている。
むしろ天皇制を廃止したら日本社会はもっと悪くなる可能性があると考えている。
例えば、今もし天皇制を廃止したら、天皇の代わりに誰がその位置につくだろうか?
菅首相に跡を譲った安倍前首相?菅首相を後ろで操る二階幹事長?それとも菅首相が天皇の地位も兼務する?
いずれにせよ現在よりも絶望的な状態になることは避けられない。
天皇という一種現人神的な権威に国民が依存しているかぎり、天皇制を廃止したところで必ずそれに代わる何らかの存在が必要になるであろう。
天皇の代わりにどこの馬の骨かわからない怪しげな人間が国家統合の象徴になるくらいなら、まだブランド価値のある氏素性のはっきりした天皇の方がいいと思う。
国民がそもそも天皇制のような宗教がかった権威に頼らなくなるのが一番いいのであろうが、私はそれは絶望的だと思っている。日本国民は永遠にそのレベルには達しないだろう。
したがって、古代から国民情緒がほとんど発達していない日本国民には天皇制という古臭いシステムがお似合いなのであり、無理に変えようとする余計におかしなことになるだろう。
ヒトラーという独裁者は、ドイツ帝国が崩壊して皇帝という権威がいなくなったために誕生したのである。
権限は有るのに責任をとらない与党、権限は無いのに責任を押し付けられる野党
ネトウヨのコメントを読んでいると興味深い共通点があることに気づく。
彼らは自民党の失政の責任を全て野党に転嫁する。
例えば、「コロナ対策が進まなかったのは野党が国会でモリカケ桜ばかりを追究していたからだ!」など。
そもそもモリカケ桜が追究されるのは安倍前首相の怪しすぎる行動によるものであり、
さらに批判に対してまともな返答をしない、はぐらかす、嘘をつく、隠蔽する、改竄する・・・などなどおよそ法治国家の政治家とは思えない行動を繰り返したせいであり、
まったくもって自業自得としか言いようがない。
それにもかかわらず、コロナ対策の失敗の責任は与党ではなく野党にあるらしい。
アベノマスクみたいな天下の愚策は野党がいくら反対しようとも、いくらモリカケ桜を追究されようとも不退転の決意でやりきるくせに、まともなコロナ対策はモリカケ桜を追究されたくらいでできなくなるらしい。
ネトウヨは、権限は有るのに責任をとらない与党を擁護し、権限は無いのに野党に責任を押し付けようとしている。
これをネトウヨの馬鹿げた思考回路によるものと言えばそれまでの話だが、しかしこういう例は日本社会の至る所で見られないだろうか。
会社の業績が悪化して責められるのは、方針を決定している社長ではなく、いつでも社長の指示に従って動いている従業員ばかり。
戦争を始める決定権の無かった若者ばかりが特攻兵として死地に追いやられ、戦争を始めた上官たちは戦後も天寿を全うする。
こんな例は日本社会にいくらでもありふれていないだろうか。
まっとうな社会では権限の重さと責任の重さが正比例するのに対し、
日本社会では権限の重さと責任の重さが反比例するようである。
権限が重くなればなるほど責任は軽くなるのが日本である。
だから日本のトップは責任をとらない。
責任をとらないから、日本の支配体制は永続する。
その典型が日本の天皇制だろう。
責任をとらないことで、有史以来ずっと廃止されずに来たのが天皇制である。
天皇制がこのまま続く限りは、日本社会のこの特徴もいつまでも続きそうである。